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男(……)
ザッザッ 男
(この川辺に来るのも……これで何度目だろうか)
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男(前に来た時とは打って変わって、周りの木々は華やかな赤に染まっている)
男(俺の心はその赤とは対照的に、どんよりと沈んだ黒紅色のままだ)
男(時折ぴゅるり、と吹く冷たい風は、まるで俺を追い出そうとするかのようで)
男(俺はどこか情けなく、肩をすくめて近くの岩場に腰掛けた)
男(秋の美しい紅葉は、俺の心を素通りするばかりで、全く癒してはくれない)
男(ならば空だ、と見上げた先には、クリーム色の世界が広がっていた)
男「……雨か」
男(ぽつりと落ちて来た雨粒は、数分もしないうちに数を増していき)
男「……感傷に浸るのも許さないってか。仕方ない、ここで雨をしのぐか」
スッ
男(俺は、近くの小さな洞穴で雨宿りをする事にしたのである)
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男(中は足首が浸る程度の水が占領している。大きな岩に腰掛ける事で、俺はようやく一息ついた)
男(持ってきた魔法瓶の蓋を開け、熱々のお湯をカップ麺に注ぐ)
男「……」
男(食べられるようになるまでは、スキットルに入れたウイスキーを、じっくり、ゆっくりと時間をかけて飲む)
男(この魔法瓶とスキットルは、今は亡き相棒のものだ)
「……珍しいの、ここに人が来るとは」
男「!?」
男(周りには誰もいないはずだ――そう思い、声の方向に振り返る)
男(ぬらぬらとした身体、大きな頭……一匹の山椒魚が、そこに佇んでいた)
男「まさか山椒魚の幻聴を聞くとはな……酒が回るにはまだ早いようだが」
山椒魚「安心せい、主が聞いているのはその山椒魚の声じゃ」
男「……はは、さすがにたまげた。まさか山椒魚と話す日が来るとは」
山椒魚「主は何故ここに? 滅多に人が来ないものだが」
男「さあ……蕎麦を食べに来ただけかもな」
山椒魚「蕎麦……その物体の事か?」
男「ああ」
山椒魚「二つあるようだが……主一人で喰うのか? 儂に劣らずの大食漢よのう」
男「一つは相棒のものだよ。変わった奴でな、冷めてのびきった蕎麦が大好物だったんだ」
男「もう、4んでこの世にはいないんだけど」
山椒魚「……ふむ」
山椒魚「ここで会ったのも何かの縁じゃ、主の抱えているものを話してみよ」
男「……分かったよ、蕎麦でも喰いながら聞かせてやろう。一人の滑稽な男の話を」
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男「まあ……「彼」には一人の友人が居た。平々凡々とした、ごく普通の友人が」
男「友人は目立った才能こそ無かったが、努力家だった。人の数倍の努力をし、誰よりも頑張るような奴だった」
山椒魚「ほう」
男「しかし――「彼」は天才だった」
男「友人が何をしようとも、「彼」はほんの少しの努力でそれを上回ってしまう」
男「周りの僻みの声は、当然「彼」にも届いた」 男「「彼」はその声に悩まされていたが、決まって友人が助けてくれた」
男「『その才能を一生懸命使って何が悪い。誰が何と言おうが、君は君だ』」
男「友人は才能ある「彼」を尊敬していたし、「彼」は努力家で強い心を持つ友人を尊敬していた」
山椒魚「良い友人を持ったのだな」
男「ああ……おっと、そろそろ俺の分がいけそうだ。御先に失礼」
男「うむ、やはり旨いな。つゆが冷えた身体に染みわたる」
山椒魚「変わった香りだな……人の食べ物なぞ滅多に見ない事もあるが」
男「だろうな……ごちそうさん」
男「さて、話に戻るか」
男「「彼」と友人はそれからも仲が良く、それなりに長い関係を築いていた」
男「そんなある時、友人は一人の女性に恋をした」
山椒魚「……」
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男「その女性は空が好きで、友人は彼女の誕生日までに、美しい空の絵を描こうと決めていた」
男「そして、いよいよ当日が来た。友人は女性に電話をし、部屋には「彼」一人だけが残った」
男「「彼」は友人の書いた絵を見ていたが、ふと気になる点を見つけた。大空を飛ぶ小さな鳥の絵だ」
男「その鳥は真っ黒な烏だった。「彼」は、これは白い鳥の方が良いのでは、と思い、何も考えずに白い鳥に描きかえた」
男「そして「彼」は友人を勇気づけ、送り出した」
男「一時間ほど後に、友人が帰ってきた――目に涙を溜めながら」
男「どうしたんだ、と聞く「彼」に飛んできたのは、今まで聞いた事も無い友人の罵声だった」
男「『どうして絵を書き換えたんだ!? 彼女は烏が好きだって言うから書いたのに!』」
男「それを聞き、「彼」は青ざめた。ほんの軽い気持ちでやった事が、友人の努力を台無しにしてしまった、と」
男「しかし、友人がショックだったのは、絵が変わっていた事では無かった」
男「『この白い鳥、一番気に入った、すごく綺麗だよ』――そう告げられたそうだ」
男「「彼」の才能が、友人の努力を、思いを、全て奪ってしまったんだ」
男「友人は泣きながら部屋を飛び出していった」
男「……「彼」は、追いかける事が出来なかった」
男「そして」
男「三日後――友人が川に身投げした、と言う知らせが、「彼」の耳に飛び込んできた」
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男「後日、「彼」の元に一冊の日記が届いた」
男「そこには、友人の苦悩が書きつづられていた」
男「天才の金魚のクソ、と陰口を言われていた事」
男「友人自身も、「彼」の才能が、時々憎たらしくて仕方なくなってしまう事、そんな自分への嫌悪」
男「努力をしても、結局無駄なのではないかと言う葛藤」
男「その日記は誰が送ったのかは未だ分からない――だが、「彼」の心を叩き潰すには十分だった」
男「誰よりも分かっていたはずの友人の事を、「彼」は何も見えていなかった」
男「それ以来、「彼」は人と接するのが怖くなってしまった」
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男「ただ時折友人の身投げした川を訪れ、懺悔する事だけ」
男「そうして「彼」……この俺、男は今も醜く生き延びている」
山椒魚「……そうか……」
男「……」
山椒魚「……」
ザアアァアアァアアァァアァ……
男(二人とも喋らない)
男(肌寒い洞穴の中では、ただ強くなった雨の音が響き渡るのみである)
男(再び心の中に湧き出てきた自責の念をかき消すように、俺はウイスキーを口に含んだ)
男「……次、あんたが……何か喋れよ。俺が話したんだから」
山椒魚「そうじゃな……何を話そうか」
男「いや、何で俺と会話出来るんだよ。まずそこからだろ。酒の肴程度にはなるだろう」
山椒魚「……うむ、では儂も聞かせてやろう……一匹の愚かな山椒魚の話を」
男「……ほう」
山椒魚「まず説明じゃの……主は神を信じるか?」
男「神か……今までは特に考えた事は無いが、あんたを前にすると信じざるを得ないな」
山椒魚「神は一つの概念では無い。自然や特殊な場所で「選ばれる」のだよ」
男「選ばれる?」
山椒魚「この山では、選ばれた「動物」は雨を司る力を持つ。鳥達に聞いた話だと、近くの神社では狐の神がいるらしいが」
男「雨……か」
山椒魚「神になった動物は、生涯を終えるまではその力が身体に宿る。そして、寿命によって4んだ後はまた新たな動物が選ばれるのだよ」
男「……つまり」
山椒魚「ああ、儂は神に選ばれた」
山椒魚「ただし、儂は完全な神にはなれなかった……」
男「完全?」
山椒魚「完全な神になった動物は、力をコントロールし、さらに人に変化する事が出来る。 現実世界であったり、夢の世界であったりするが」
山椒魚「しかし、儂は人には変化できぬ……先代の神、種族は鹿であったが、彼は完全にコントロールする事が出来た」
山椒魚「さて、話は昔に遡る……その鹿が寿命で息絶え、儂が次世代の神に選ばれた」
山椒魚「この山では誰もが神になる覚悟をしている……儂もそうだった。しかし、儂は不完全な神だった」
山椒魚「山の動物共は、次の神となった儂を表面上は祝福してくれた」
山椒魚「しかし、儂には見えていた。心の中では、「早く4んで、しっかりとした力を持った次の神が生まれないか」という願望が」
山椒魚「中途半端に芽生えたこの力は、雨をコントロールする事が出来ぬ。ただ、儂の感情に左右して不安定に降るだけだ」
山椒魚「すっかり周りの者を信じなくなった儂は、この洞穴に閉じこもった」
山椒魚「そのまま餓4してしまえば良い――周りはそう思っていたし、儂もそのつもりであった」
山椒魚「しかし、皮肉な事に、神の力は、儂が餌を食べなくとも、生き延びるようにしていた」
山椒魚「ならばこのまま石となろう――そう思い、儂はずっとここで引きこもっていた」
山椒魚「潤いを無くし乾ききった儂の心は、決して雨が降ることを許さなかった」
山椒魚「植物は枯れ、動物たちは木の実や草が減ったと文句を言う」
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山椒魚「しかし、神を消してしまえば、そこで神の力は途絶えてしまう。奴らは儂を消す事は出来なかった」
山椒魚「そんなある日、一匹の美しい蝶が儂の元へやってきた」
山椒魚「『どうか、雨を降らして下さい』――そう懇願してきたのだ」
山椒魚「すっかり腐っていた儂は、鼻で笑うとその蝶を帰らせた。どうせ自分の身が可愛いだけだろう、と」
山椒魚「しかし、その蝶は何日もやってきた」
山椒魚「儂はそのたびに跳ね除け続けたが、次第に少しずつ心を許そうとしていた」
山椒魚「『……儂の負けだ。あい分かった、明日雨を降らそう』」
山椒魚「そう告げた時の喜びようといったら、並大抵のものでは無かったものだ」
山椒魚「儂は久方ぶりに力を蓄えた」
山椒魚「――しかし、ただでさえ未熟な力をずっと使わなかったせいで、儂は力を発揮する事が出来なくなっていた」
山椒魚「どうしたものか、このままでは――そう焦った儂は、翌日蝶にこう告げた」
山椒魚「『儂が力を発揮するには贄が必要のようだ』……儂は、自分のみっともない神の誇りを守るため、そう言い繕った」
山椒魚「翌日、その蝶は4んだ」
山椒魚「聞いた話だと、どうも彼女はもともと寿命が短かったらしい。それでも何とか弱った身体に鞭を打ち、ここを訪れていたのだ」
山椒魚「儂は己を恥じた。どうして、もっと早く雨を降らそうとしなかったのか――溢れ出る感情は、儂の身体を突き抜けた」
山椒魚「それ以来、この山はよく雨が降るようになった」
山椒魚「分かるか」
山椒魚「この雨は……儂の涙なのだよ」
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男「……そうか」
山椒魚「……だが、幸か不幸か、もう儂の寿命は短くないようだ」
山椒魚「もうじき4ぬじゃろう……」
男「……そう、か」
男(ふと目線を下に下げると、すっかり冷めてぬるくなった蕎麦が目に入った)
男「……冷めたか」
男「……」
男(俺はそれを口に運ぶ)
男(つゆを吸いきってふにゃふにゃになった麺)
男(ぬるいつゆでそれを流し込んだ)
男「……やっぱり、まずいなァ……友……」
男(それでも俺は、その味を噛みしめる)
山椒魚「……」
男「……」
男(平らげた俺は、気持ち悪さを誤魔化すようにウイスキーを飲む)
男(特有の香りが鼻を突きぬける、俺はその香りがどうも苦手だ)
男(結局、お前の好きな酒の美味さすらも分かってやれなかったんだな、俺は……)
男「……飲むか?」
山椒魚「……そうだな、物は試しじゃ」
男(俺は口を開けた山椒魚に、ウイスキーをほんの少し垂らした)
山椒魚「……変な味の水じゃな……だが、悪くない……」
男「……はは、まさかウイスキーが口に合うとはな」
山椒魚「ウイスキー、と言うのか……儂の身体には良くなさそうじゃが……もう永くない、もう少しくれんか」
男「ああ」
男(洞穴にはウイスキーを飲む山椒魚、そして一人の人間)
男(何とも奇妙な光景だが、不思議と俺は得体の知れない心地よさを感じていた)
男「……あ、もう少ないな。最後は俺が飲む」
男「……ふぅ……」
山椒魚「4ぬ前に良い体験が出来た……男よ、感謝する」
男「神さんに感謝されるなんてな、俺はそんな資格ないさ」
山椒魚「……眠くなってきた、儂は寝る」
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男「……そうか」
山椒魚「もし……叶うのならば……お互い……やり直したいものだな……」
男「……ああ」
山椒魚「フフ……儂は何を口走っておるのやら……男よ……達者でな……」
男「ああ……あんたと話せてよかったよ」
男(山椒魚は目を閉じた)
男(それが寿命によるものか、それともアルコールのせいかは分からない)
男(だが、俺はもう二度と彼に会う事は無いだろうと確信した)
俺(俺は洞穴を出る。外は依然として雨が――)
男(……あ)
男「……雨、止んだな……山椒魚……」
先程の曇天は何処へやら、空は清々しい秋空へと変わっていた。
吹き抜けていた風は、幾分柔らかくなった模様。男の肌を優しく撫でる。 何だかそれがむず痒く、男は歩き出す。
まるで自然が俺を許してくれたようだ――そんな思考が一瞬頭によぎり、馬鹿馬鹿しいと首を振る。
そんな自分と決別するかのように、男は歩く速度を速めた。
何処へ行くかは彼自身も知らない。
しかし、彼はこれからもこうして漠然と生きていくのだろう。
もう一人の「友人」と共有できた、己の消せない罪を背負いながら。
終わりです。
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